自分を見つめて見えてきたこと、感じたこと
以前のブログ、「覚悟をするとは一体どういうことか」で、ランギヌイ神様に自分を見つめるように言われました。
ランギヌイ神様によると、鏡を見れば比較的簡単に自分を見つめられる、自分と向き合えるようなのでやってみました。
鏡を見ようと鏡を机に上に置きましたが、なかなか見る気になれません。
困った。
私は、自分の顔を鏡で見るのが嫌いでした。
自分のことが好きではなかったので、鏡で自分の姿を見るとイライラしました。
必要最低限しか鏡を見なかったのです。
写真も好きではありませんでした。
意を決して、鏡で自分を見てみました。
以下が、私が鏡で自分を見て感じたこと、見えてきたことです。
歳はとったけど変わっていない。
皺もあるしシミもある。
鏡の向こうに幼い頃の自分がいる。
幼い頃の親の庇護のもとに育った自分が見える。
自分のことが嫌いだったはずなのに、自分のことが好きだった自分のように感じる。
どういことだろう。
なぜか、幼い頃の自分ばかりを感じてしまう。
今までの自分の人生、何もしてこなかったと思っているが、そのようなことはないと感じる。
自己否定が激しかったはずなのに、今は、肯定している自分がいる。
もっと嫌なことばかりが出てくるかと思ったが、その逆なので戸惑っている。
私は私のことが好きなんだ、と思うし、感じる。
そう感じた瞬間、涙が滲んでくる。
そうなんだ、私は本当は自分のことが好きなんだなとわかったら、もっと涙が溢れ出てきた。
何で、自分のことを好きだと思わなかったのだろう。
何だか、とてもホッとした感じ。
何で自分のことをずっと嫌いだなんて思っていたのだろう。
思い当ること、それは、自分を周りと比べ過ぎ、親からの否定的な言葉。
前を向いて背筋をピンと伸ばし、姿勢をよくしているはずなのだが、そのうちに首を垂れてしまって、いつしか地面しか見なくなってしまっている自分がいる。
いくら親に否定的な言葉を言われても自分が気にしなければいいだけ。
自分を周りの人たちと比べても意味のないことなのに。
でも、それは反射的にしてしまっていること、と感じる。
また、鏡で自分をじっと見つめる。
嬉しそうに楽しそうに大口を開けて大笑いをしている自分がいる。
何でいろいろなことを心配していたのだろうと。
また、鏡に意識を戻す。
今度は、やっぱり自分のことが好きではない自分が見え隠れする。
自分が好きではない自分自身の向こうには、自分のことが好きな自分が見える。
基本的に自分のことが好きなのだろうと感じる。
無理に自己肯定をしようと思っているのではなく、自然と湧いてくる感情。
この辺りで、集中力が切れました。
自分で鏡を見つめること30分。
まあ、よくやったかな、と思いたいです。
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